2010年04月16日

桜前線が長野まで


長野のシンアツシン指導員から桜の カメラ が届きました。
メール 長野の桜は3分咲きのようですが、中野市の高梨館跡公園の桜は満開でした かわいいかわいいかわいい

高梨館跡公園.jpg

淡い薄紅色の桜はわた雪のようですね。
人によっては綿飴に見える人も?
想像におまかせします わーい(嬉しい顔)
posted by shin at 14:14| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月14日

1200年燃え続ける灯


不滅の法灯ってご存知ですか?
最澄が中国・天台山から持ち帰った「法理の火」が比叡山に1200年の間、灯され続けています。
その親火(種火)が福岡の古賀市の横大路という民家にあります。
信長が比叡山を焼き討ちにしたとき法灯が消えてしまい、横大路家に火をもらいにきたという話があります。
私(シンアツシン記者)はいつかその家に行ってみたいと思っていましたが、13日に年に一度の毘沙門天のご開帳があるというので、法要に参加しました。
西暦805年、最澄が唐から戻ったとき福岡県古賀市の海岸に上陸し、
布教の場所を探しました。
それを手助けしたのが猟師の源四郎でした。
最澄はしばらく源四郎の家に滞在しながら布教しました。

横大路家.jpg

そのお礼に自ら彫った「毘沙門天」と「法理の火」を授けました。
他に望みはないかと尋ねたところ、干ばつの地だったため、「良い水を得る方法を教えてください」と願いました。
最澄が土地を選び杖を突き刺すと、そこから清水が湧き出てきました。それが「岩井の水」といわれています。
この「毘沙門天」「法理の火」「岩井の水」を守り続けると、子孫が絶えないと言い残し最澄は旅立ちました。
源四郎と最澄が出会った日が6月13日ですが、田植えで忙しいため 明治になってからは4月13日に、年に1度の法要が開かれ毘沙門天のご開帳があります。

毘沙門天・最澄彫刻.jpg

横大路の名も最澄が与えたと言われています。
最澄の言葉を守り続け、現在45代続いています。
44代目の母ハツノさんは92歳まで70年間、かまどの火(法理の火)を一日もかかさず灯し続けてきました。
宿泊旅行には一度も行ったことがないと言われます。

法理の火.jpg

「継続は力なり」といいますが、1205年間、一日も欠かさず火と水を毘沙門天に供え続けた苦労は、そんな言葉では到底言い表せないものがあります。



posted by shin at 12:04| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月04日

第一回「桧原桜賞」

福岡市民には有名な「桧原桜(ひばるざくら)」。
26年前に市道拡幅工事のため、伐採されそうになりました。
桜の木の枝に、命を惜しんだ市民が、
「花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花をゆるし給え」
と短歌を吊るしました。
その輪が市民に広がり、多くの短歌や俳句が寄せられました。
その1人、当時の市長、進藤氏が、
「桜花 惜しむ大和心のうるわしや とわに匂わん花の心は」と返歌。
その後、拡幅工事は一部変更され6本の桜は命を救われた。

桧原桜.jpg

下の石碑には桧原桜を守るきっかけとなった、市民と市長の短歌が記されています。
右のポストには桧原桜を守った市民が書いた本が二冊入っていて、貸出できるようになっています。

桧原桜石碑.jpg

桜の枝や柵には小学生から大人までの多くの短歌が掛けれれています。

桧原桜短歌.jpg

桧原桜短歌2.jpg

そして今年初めて桜の情景を短歌で詠む「第一回桧原桜賞」の表彰式が先日行われました。
4千を超える作品の中から福岡市長賞に選ばれた作品。

学生の部(高校1年)
「はるかぜに まうはなびらを つかまえて こころのなかに はるをしまった」

一般の部(58才主婦)
「青空に 幣(ぬさ)振る神の みてありや 土へ水へと いそぐ花びら」

南区長賞(小学5年)
「おんぶされ 桧原桜で 食べた菓子 母の背中が 暖かかった」

桧原桜2.jpg

毎日通勤で通る道。
見る度に桜の花びらの美しさと、大和心の連鎖の美しさが重なって見えます。















ラベル:桧原桜
posted by shin at 16:26| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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